【鬼滅の刃・考察】水の呼吸『干天の慈雨』の“奥深さ”とは?

鬼滅の刃に登場する剣技は、重要なキャラや各柱が使用する呼吸により、様々な種類があり、全てを数えると約80種類以上の剣技があると考えられます。
その中で、主人公である炭治郎の使用する剣技『水の呼吸 伍ノ型 干天の慈雨(ごのかた かんてんのじう)』は数多くある剣技の中でも特殊なものであるといえます。各キャラの使用する剣技のほとんどが、鬼を一瞬にして抹殺するための剣技であるのに対し、『干天の慈雨』は、斬られた鬼は痛みを感じず、優しい雨に打たれているような感覚をおぼえるといいます。
このような、憎むべき鬼に対してまで慈悲をかけるような技を、私は鬼滅の刃を読むまで知ることがありませんでした。

以上のことから、炭治郎の剣技『干天の慈雨』に関して、考察してみたいと思います。

『干天の慈雨』

『干天の慈雨』が初めて登場するのは、単行本鬼滅の刃第4巻 の31話『自分ではない誰かを前へ』です。
ファンの間では神回とされる那田蜘蛛山編に登場するエピソードの1つです。

十二鬼月である、『累』に母さんと呼ばれ、累に支配されている鬼が、操り人形のように鬼を操って、炭治郎達に攻撃を仕掛けてきます。その攻撃をかわし、炭治郎は『水の呼吸 壱ノ型 水面斬り』でとどめを刺そうとしますが、その刹那、『母さん』は累の支配から『死ねば解放される、楽になる』と、まるで攻撃を受け入れるような覚悟の表情をします。その表情を見た炭治郎は、反射的に『壱ノ型 水面斬り』から『伍ノ型 干天の慈雨』に切り替え、とどめを刺すのでした。

アニメでは『母さん』鬼が斬られた瞬間の表情が、とても穏やかで感涙すら浮かべており、相手が自ら頚を差し出して来た時のみ使う慈悲の剣撃であることが美しく描かれている印象的なシーンでした。
斬られた瞬間、母さん鬼は少しの痛みも苦しみも感じることなく、まるで優しい雨にうたれているような感覚になります。そして、穏やかな死を迎えることが出来たのでした。死を迎えるまでの時間、炭治郎の自分に向けられた透き通るような優しい目を見て、自分がまだ人間だった頃を思い出します。
『あの目…優しい目。透き通るような。人間だった頃、誰かに…優しい眼差しを向けられていた気がする。あれは誰だった?おもいだせない。いつも私を大切にしてくれていた人』
その誰かについてははっきりと描かれていませんが、『いつも私を大切にしてくれた人』と言っているところから、お母さんのような存在ではないか、と考えられます。
優しく、穏やかな死を迎えられたことで、鬼であった母さんは、死の間際に人間としての優しさや暖かさを取り戻すことが出来たのではないでしょうか。

『炭治郎は介錯人』

炭治郎は母さん鬼を斬ったあと、『あの人からは恐怖と苦痛の匂いがした。死を切望するほどの』と振り返っています。恐怖と苦痛は、累に支配されていたことに起因するのですが、炭治郎はそれを一瞬のうちに感じとって、『壱ノ型 水面斬り』から『伍ノ型 干天の慈雨』に切り替えたのです。

人間から鬼となった母さん鬼は、数多くの人間を殺し、罪を犯しました。しかしながら、最期には覚悟を決め、自ら死を受け入れます。そのような存在をもリスペクトし、最期に見る景色が、血飛沫や恐怖と苦痛に満ちた断末魔ではなく、優しい雨にうたれているような感覚で、穏やかに人間だった頃の優しさを思い出して、死ぬ。干天の慈雨の使い手、炭治郎にしか出来ない慈悲の技でしょう。

ところで、『干天の慈雨』とはどんな意味なのでしょう?調べてみたところ、日照り続きのときに降る、恵みの雨。 待ち望んでいた物事の実現、困っているときにさしのべられる救いの手にたとえる、とありました。まさしく、累の支配から逃れられず、死を切望していた母さん鬼に差しのべられた、救いの手であり、恵みの雨のような優しい雨であったと言えると思います。

私はこの干天の慈雨という剣撃が、昔の武士の時代に行われていた、あることに似ているように感じました。

そのあることとは、『切腹と介錯』です。

「切腹」とは文字通り自ら腹を斬る行為です。その勇気を讃えて武士にとって切腹は名誉あるものと考えられてきました。しかしながら、腹を切ってもすぐに絶命はしません。切腹した人間を放置すれば、一昼夜かけて長い時間苦しんで絶命します。
苦しむ時間を短くするために、介錯という作法が必要になりました。これは、切腹する者の背後もしくは左横に立ち、切腹をしたあとすぐさま首を切り落とすことで、苦しむ時間を減らすという武士の情けです。切腹は武士の名誉であるため、見苦しくないように、介添えをする意味がありました。介錯は切腹の苦しみを長引かせない思いやりのある行為として首を切るのですが、一太刀で首を切り落とすのは難しい技。精神を修練し、剣の熟練者でなければできません。
鬼滅の刃では、鬼を退治するためには首を斬ることが必須の条件となっています。覚悟を決めて、死を受け入れた母さん鬼は、さながら切腹をする武士のようです。
その武士さながらの鬼が、苦しまないよう、見苦しくないように『介錯』する。その介錯の剣であり、慈悲の剣がまさしく『干天の慈雨』という剣劇ではないか、と思うのです。

炭治郎はまた、このようにも言っています。
『鬼は人間だったんだから。

俺と同じ人間だったんだから。

醜(みにく)い化け物なんかじゃない。

鬼は虚(むな)しい生き物だ。

悲しい生き物だ。』

全ての鬼は、鬼になる前は人間でした。
鬼になってしまった理由はそれぞれ違いますが、そのほとんどが虚しく、悲しい理由があって鬼になってしまったのです。
母さん鬼が鬼になった理由は詳しくは描かれていませんが、恐らくは死ぬ間際に見た、自分を大切にしてくれた存在との別れが原因の1つではないかと思います。

醜い化け物、虚しく悲しい生き物としての『死』ではなく、同じ人間としての、尊厳ある『死』を与える。
これこそが『干天の慈雨』に込められた、慈悲の剣が存在する意義と言えるでしょう。

また、裏を返せば、全ての人間は鬼となる可能性を秘めています。人間が鬼となる理由となり得る醜い欲であったり、悲しい別れを通しての恨みであったり。様々な理由がありますが、干天の慈雨並びに鬼滅の刃が斬りたかったものは、人間の心に内包する、そのような『鬼となる理由』なのかもしれません。
心が具現化して鬼となり、その鬼を斬ることで浄化される。干天の慈雨は、最期に鬼を許し、慈悲を与える。単純に勧善懲悪のストーリーではなく、人間の醜い部分や虚しい部分を退治していくようなストーリー性も鬼滅の刃の魅力的な部分ではないか、と思います。

『まとめ』

『鬼滅の刃』が描かれている時代背景は大正時代。もはや切腹という文化からはかけ離れてしまった時代と言えると思います。しかしながら、干天の慈雨に見える慈悲の剣という思想には、できるだけ苦痛を与えず、名誉ある死を遂げるよう、『介錯』をする、といった、日本人の武士ならではの情けと美学が根底にあるように感じました。

『鬼滅の刃』は漫画としてのストーリー性も素晴らしいといえますが、炭治郎の技の1つである『干天の慈雨』だけをとっても、日本人の武士の情けと美学、慈悲の心が伺い知れる、とても深い文学的な作品ではないか、と思います。まさしく日本が誇る傑作漫画の1つだと言えるのではないでしょうか。

以上、水の呼吸 干天の慈雨に関しての考察をしてみました。最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA